歴史

河井継之助

昨日只見線を紹介したので、今日も只見についてふれてみようと思います。
只見ゆかりの歴史上の人物について。

彼の人の名は、河井継之助。

幕末の越後長岡藩に生まれ、長岡藩士として戊辰戦争で戦った人です。

慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が開戦、関東・東北・北越と
その戦火は広がっていきました。西軍(官軍)は長岡藩に会津藩討伐令を出しますが、
継之助は事を平和に解決しようと東奔西走し、西軍に直談判するも交渉は決裂。
長岡藩は奥羽越列藩同盟に加わり、北越戦争へと突入します。

初めは善戦するも次第に戦況は悪化。長岡藩は落ち、継之助も7月25日の戦いで
深い傷を負ってしまいました。親藩会津に逃れ再起をはかるため、彼は八十里峠を
越えて会津に向かいます。山越えは困難を極め、8月5日ようやく会津領只見村に
着きました。けれど、彼の傷は悪化し、破傷風を患っていました。

列藩同盟軍の軍医・松本良順の手当てを受けるも回復は叶わず、慶応4年8月16日、
只見・塩沢村にて静かにその生涯を閉じました。

継之助の葬儀は会津城下で行われ、官軍の目を逃れるように会津のとある場所に
ひっそりと埋葬されました。一方、荼毘の後に拾い残された彼の細骨を只見・塩沢の
村民が集め、村にも彼のお墓を建立しました。

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戊辰戦争後、彼の遺骨は長岡へ帰ることができましたが、長岡藩を戦争に巻き込んだ
張本人と非難を受けました。以後、長岡での継之助の評判は良くないと聞きます。

只見では彼の功績を讃え、戦後から現在に至るまで彼のお墓を守り、
河井継之助記念館を建て、彼が生きた証を伝え続けています。

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